colnyago’s diary

勝手気ままに書き散らかしたものです

今夜クロアチア戦

さて、いよいよ今夜クロアチア戦である。

1998年が初出場。以来、今回が7回目。

私がワールドカップを見始めたのは、1986年のメキシコからで、深夜に起きて見ていた記憶がある。日本は、ワイルドカップよりもオリンピックに重きを置いており、ワールドカップにはあまり本腰を入れてこなかった。それが、1986年のワールドカップのアジア予選で、本格化的に乗り出してきた。最後、韓国との対戦に負けて出場ができなかった。あのホームでの予選もテレビで見たが、木村和司フリーキックが決まって、もう少しだったが、やはり当時の日本と韓国とのチーム力の差からいって出場はまだまだという印象で、点数は2:1でも実力差はそれ以上にあった。

それからプロ化が始まり、Jリーグが創設。以降の歴史はよく知られた物である。1993年のドーハの悲劇、1997年のイランとのプレーオフの勝利、1998年本大会では1勝もできず敗退、2002年初めての決勝トーナメント進出、2006年のグループリーグ敗退、2010年2度目の決勝トーナメント進出、2014年グループリーグ敗退、2018年3度目の決勝トーナメント進出。

思えば、本当に少しずつ前進してきていることがわかる。そして、いくつかの失敗からかなり学んでいることがわかる。いつしか、ワールドカップ本大会に出ることが目標から当たり前になり、そして決勝トーナメントにも2回に1回の割合で進めるところまできた。選手や監督は、各回ごとに変わるが、学んだことは受け継がれているような気がする。それは、現場の代表だけではなく、それをテレビを介して広く一般に見た者(街の指導者や小学生まで)にまで刻まれている気がするのだ。2度と同じような悔しい思いをしたくないからだ。経験の積み重ねを感じる。

こうやって、ワールドカップに出る国は、学んで強くなっていくのかもしれない。

世界と戦うため、勝ち進むため、まず日本がやったことは、海外から指導者を呼び、基本から学んだ(オフト監督時代)。その後、日本人監督でのW杯出場を目指した(加茂監督、岡田監督)。そして、最新式かどうかは別にして、優勝したフランスサッカーのエッセンスを取り入れるために、トルシエ監督を招聘。次に、ジーコ監督でトルシエの管理サッカーからの逆振りでの自由謳歌型サッカー。オシム監督による日本化が謳われるが、病気による第2次岡田監督政権による2回目の決勝トーナメント進出。その次に、守備的な戦略から攻撃的にも戦えるようにと、ザッケローニ監督になる。予選までは良かったが、本大会では不発。ここから、攻撃的というニュアンスは失われ、やや現実的な監督人事となる。アギーレ、ハリルホジッチ、西野、森保と続く。

この過程で、ハリルホジッチは結構大きなことをやったのではないかと思っている。サッカーは1対1で負けないことの積み重ねだということを再認識させてくれたからだ。デュエル、という言葉を使っていたが、この頃からヨーロッパのクラブでやる選手が増えていったこととリンクするのだが、球際で頑張れるようになり、ある程度サッカーの質が安定してきたように思うのだ。特に守備のところでだ。西野監督はハリルを引き継いだのだが、ハリルがいたからこその西野サッカーだと思っている。そして、それを引き継いでいるのが今の森保監督だ。やはり、ある程度、守備で強さや粘りがある選手を選抜している。というか、そういう選手でないと、海外のクラブでやっていけないし、守備をしなくても許される前線の選手は、メッシとロナウドくらいだろう。世界の中の日本を現実的に理解し、今いる選手たちで最大の効果を発揮できるような戦略と戦術で戦っていると思う。

さて、今夜のクロアチア戦。どのような戦略と戦術で日本は戦うのだろうか。