colnyago’s diary

勝手気ままに書き散らかしたものです

「被災想定生活」を読んで感じたこと

Yahoo!ニュースの「電気、水道なし、音信不通で1カ月――東出昌大が『被災想定生活』で実感した必要なもの」という記事を読んだ。

俳優で猟師でもある東出昌大さんが、電気、水道、ガス、携帯電話などが使えなくなった状況を想定し、1カ月間生活してみたという内容である。山の湧き水を汲み、薪で火を起こし、備蓄した食料や自分で得た食材を使って暮らす様子が紹介されていた。

私は田舎の出身であるため、この記事を非常に興味深く読んだ。

田舎暮らしは、一般に「不便」という言葉で語られる。しかし、災害によって社会の仕組みが止まったときには、水や食料を得る場所が身近にあること、火を起こす方法を知っていること、食べ物を保存する知恵があることなどが、大きな強みになる。普段は古く見える生活の知恵が、非常時には人を支える力になるのだと改めて感じた。

特に印象に残ったのは、水の大切さについてである。蛇口をひねれば水が出る生活をしていると、飲み水だけでなく、炊事、洗濯、入浴、手洗いにも大量の水を使っていることを忘れてしまう。水を自分で汲んで運ばなければならなくなって初めて、上下水道が私たちの生活をどれほど支えているかが分かるのであろう。

また、田舎では人と人との距離が近く、食料を分け合ったり、物々交換をしたりする関係が残っている。こうした地域のつながりも、災害時には重要な備えとなる。防災というと、水や食料、防災用品を買いそろえることばかり考えてしまうが、普段から近所の人と顔の見える関係をつくっておくことも、立派な防災であると思う。

一方で、情報がなくなったことによって、空や雲、風、鳥や虫の様子から天気を考えるようになったという話も面白かった。私たちは便利な情報機器に囲まれる一方で、身の回りの自然を自分の感覚で読み取る力を失いつつあるのかもしれない。

もちろん、誰もが東出さんと同じ生活をできるわけではない。しかし、自分の家では水が止まったらどうするのか、家族と連絡が取れないときはどこに集まるのか、備蓄だけで何日暮らせるのかを、具体的に考えてみることはできる。

この記事は、単なる珍しい自給自足生活の体験談ではない。便利な日常が何によって支えられているのか、そして本当に生きるために必要なものは何なのかを考えさせてくれる内容であった。

田舎で育った私にとって、懐かしさを感じる部分もあり、非常に面白く、同時にたいへん勉強になる記事であった。「備えること」とは、物をため込むだけではなく、暮らすための知恵や技術、人とのつながりを日頃から育てておくことなのである。

国公立も含めて考える「大学再編」

前々回の記事「私立大学を4割減らす」では、財務省が示した私立大学の大幅な削減案を取り上げた。

少子化によって大学進学者が減る以上、大学の規模を見直すこと自体は避けられない。しかし、そこで一つの疑問が残る。18歳人口の減少が日本全体の問題であるなら、なぜ再編の議論が私立大学にばかり集中するのか、という疑問である。

国立大学や公立大学も税金によって支えられている。私立大学には統合や縮小、撤退を求める一方で、国公立大学は従来どおり維持するというのであれば、政策として整合性を欠く。

実際には、文部科学省も国公立大学を含む再編に動き始めている。ただし、その方法は財務省が私立大学について示した「何校減らす」という数値目標とはかなり異なる。

文科省が掲げる「質・規模・アクセス」

中央教育審議会は2025年2月、今後の高等教育政策について「我が国の『知の総和』向上の未来像」と題する答申をまとめた。

答申によれば、大学進学者数は2021年の約62万7,000人から、2040年には約46万人へ減少する見通しである。約27%の減少であり、大学進学率が上昇しても入学者数そのものは減っていく。

文科省が改革の柱として掲げたのは、次の三つである。

  • 教育研究の「質」を高めること

  • 大学全体の「規模」を適正化すること

  • 地理的、経済的な「アクセス」を確保すること

ここで重要なのは、この三つが必ずしも両立しないと文科省自身が認めている点である。大学を減らせば規模は適正化できるかもしれないが、地方の若者が自宅から通える大学を失うおそれがある。反対に、地域の大学をすべて残せば、学生が集まらず教育環境や経営基盤が弱くなる可能性がある。

したがって、単純な「大学存続」か「大学削減」かという二者択一では解決しない。

私立大学改革―守るべきは大学法人ではなく学生である

この前取り上げた財務省の試算では、2040年までに私立大学を250校以上、全体の4割程度減らす可能性が示された。これは政府が決定した閉校計画ではないが、私立大学に対して統合、縮小、撤退を促そうとする財政当局の姿勢は明確である。

私立大学は授業料収入への依存度が高く、定員割れがそのまま経営悪化につながりやすい。そのため、再編の影響が最も早く表面化する。

文科省の答申も、定員を減らしながら教育の質を高める大学への支援、大学間の統合に対する支援、成長分野への学部転換、円滑な撤退のための制度整備などを打ち出している。撤退する場合には、在学生が卒業するまでの学修環境や、卒業後の学籍情報を確実に守ることも求められている。

これは重要な視点である。公的支援の目的は、経営が苦しくなった学校法人を無条件に延命することではない。学生の学びと、地域に必要な教育機能を守ることである。

国立大学改革―大学数より「機能の選択」が焦点

国立大学について、文科省は「何校削減する」という全国一律の数値目標を示していない。その代わり、学部定員の適正化、修士・博士課程への資源の重点化、大学間の連携、再編・統合を検討するとしている。

この違いには理由がある。国立大学は、学部教育だけでなく、基礎研究、大学院教育、医療、教員養成、地域産業への人材供給などを担っている。2025年度の学校基本統計では、国立大学は大学全体の約1割にすぎないが、博士課程の学生の約68%を受け入れている。私立大学と同じ基準で学校数だけを減らせば、日本の研究力や高度人材の育成基盤まで損なわれかねない。

文科省は国立大学に、①世界最高水準の研究とイノベーション、②社会の需要に応じた高度専門人材の育成、③地域を先導する人材育成と産業振興、という三つの役割を求めている。

その改革が本格化する節目が2028年度である。国立大学法人は2028年度から2033年度までの第5期中期目標期間に入り、組織や業務、運営費交付金の仕組みが見直される。現在の検討では、教育研究を維持するための基盤的経費を安定させる一方、各大学の使命や改革成果に応じて重点配分する仕組みが議論されている。

つまり国立大学では、いきなり閉校を迫るのではなく、どの大学がどの機能を担うのかを明確にし、学部・大学院の構成や予算配分を変えていく改革が先行するのである。

すでに2024年10月には、東京工業大学と東京医科歯科大学が統合し、東京科学大学が誕生した。これは単なる経営救済ではなく、理工学と医歯学を結び付けて研究・教育機能を強化しようとする統合である。

ただし、統合すれば自動的に教育の質が上がるわけではない。管理部門の削減や外部資金の獲得だけを目的にすれば、学生にとっての改善にはつながらない。教育課程が充実したのか、研究環境が良くなったのか、学生が大学の枠を越えて学べるようになったのかが問われる。

公立大学改革―「私大の公立化」は万能薬ではない

公立大学も増加を続けてきた。文科省によれば、公立大学は1989年度の39校から、2025年度には募集停止校を除いて101校となった。その中には、経営難に陥った私立大学を自治体が引き受け、公立大学へ転換した例もある。

私立大学が公立化されれば、授業料が下がり、志願者が増えることがある。しかし、それだけで大学の問題が解決したとはいえない。それまで学校法人が負っていた経営責任を、自治体と住民が税金で引き受けることになるからである。

文科省も、私立大学の「安易な公立化」を避けるよう明記している。公立大学には、自治体の規模や財政力、地域の人口、人材需要、設置目的に応じて、教育研究の内容と定員を見直すことが求められている。

公立化を検討する際には、少なくとも次の点を確かめる必要がある。

  • その地域で本当に不足している人材を育成しているか

  • 国立・私立大学と重複する学部や学科を抱えていないか

  • 公立化後も長期的に自治体が費用を負担できるか

  • 志願者増が一時的な授業料効果にすぎないのではないか

  • 大学がなくなった場合、地域の進学機会が著しく失われるか

「大学を残した」という事実だけで公立化を評価してはならない。教育上の必要性と将来の財政負担を同時に検証すべきである。

再編の単位を「一つの大学」から「地域全体」へ

文科省が進めようとしているもう一つの改革が、「地域構想推進プラットフォーム」である。これは、大学、自治体、産業界などが、2040年の地域社会と産業構造を見据え、人材需要や教育分野の配置について協議する仕組みである。

この発想は重要である。これまでの大学政策は、一校ごとの定員や経営状態を中心に見てきた。しかし人口減少時代には、国立、公立、私立という設置者の違いを越え、地域全体で何を残すかを考えなければならない。

例えば、複数の大学が同じような学部を持ちながら、それぞれ少人数の学生と教員を抱えるより、授業の共同開設や単位互換を進める方がよい場合がある。教員、図書館、研究設備、情報システム、就職支援などを共同利用することも考えられる。大学等連携推進法人の制度を使えば、大学を直ちに合併させなくても、教育面での連携を深めることができる。

再編とは、必ずしも大学名を消すことではない。まず機能を共同化し、それでも維持できない場合に、定員削減、学部統合、法人統合、閉校へと進む方が、学生と地域への混乱を小さくできる。

私立・国立・公立を同じ土俵で考える

私立大学だけに市場退出を求め、国公立大学を無条件に保護することは公平ではない。一方、国公私立を同じ割合で機械的に減らすことも適切ではない。それぞれが担う役割が異なるからである。

必要なのは、設置者の違いを越えて、すべての大学を次の基準で点検することである。

  1. 学生を入学時から卒業時までにどれだけ成長させたか

  2. 地域や社会に必要な人材を育成しているか

  3. 他大学との連携や共同化で教育機能を改善できるか

  4. 教育研究を続けられる財務基盤があるか

  5. 縮小や撤退の際に学生を確実に保護できるか

前回の記事で述べた「教育の実力」とは、入試偏差値や知名度だけではない。入学した学生に何を教え、どれだけ力を伸ばし、社会へ送り出したかである。研究大学ならば研究成果と大学院教育、地域大学ならば医療、教育、産業、文化への貢献も評価に含めるべきである。

同じ物差しで順位をつけるのではなく、それぞれが掲げた使命を実際に果たしているかを、共通の情報に基づいて検証する必要がある。

問われているのは「何校消すか」ではない

大学再編を学校数の削減競争にしてはならない。

問われているのは、若者が減る社会で、どの教育、研究、進学機会を残すかである。不要な重複や非効率は改めなければならない。しかし、数字だけを合わせるために地方の大学を失えば、教員、医療人材、技術者、研究者の育成基盤まで失う可能性がある。

私立大学には厳しい改革を迫り、国立大学には機能分化を求め、公立大学には地域との対話を求める。現在の政策は、設置者ごとに別々の道を描いている。だが最終的には、それらを地域単位の一枚の地図に重ねなければならない。

2028年度は、国立大学改革が新たな段階に入り、地域単位の高等教育再編も具体化していく節目となる。決断を先送りすれば、計画的な再編ではなく、経営破綻による突然の撤退が増えるだけである。

守るべきものは大学の看板ではない。学生が学ぶ機会と、社会が将来必要とする知識、人材、研究の基盤である。大学再編の成否は、何校を減らしたかではなく、縮小後の日本に何を残したかによって判断されるべきである。

目的をもつこと

近年の学生を見て感じるのは、入学時から、将来何をしたいのか、あるいはどういう職業につきたいのか、といった近い将来の自分を描けていないことが多い。

もちろん、具体的な将来像を持っている学生はいる。彼/彼女たちは、入学時から、目標を設定し学生生活を過ごしている。これを毎日、365日、4年間続けると、うんと成長した自分になっていることに気づくだろう。

反対に、無気力にその場凌ぎで過ごした学生は、思ったように成長できていないことになる。

これは、学生時代と共に、大学卒業後にもおおきく影響することになる。

また、今回の記事にあるようにスタート時の学力や能力はあまり関係がない。もっというと、大学の偏差値もあまり関係ないと思う。つまり、何か目的があり、それに向き合い、自分を客観視し、日々の努力を続けられる人は、最後に笑えるのだ。こういう人たちは、どこでも成功できる可能性があるし、失敗からも学べる人なので、成長は止まらない。

私立大学を4割減らす

8月27日の「日経モーニングプラスFT」で、「私立大学再編の波 教育の実力どう評価」という特集が放送されていた。

ゲストは、教育政策や大学経営に詳しい日本経済新聞編集委員の中丸亮夫氏である。

少子化によって大学の生き残り競争が激しくなるなか、財務省は私立大学を大幅に削減する試算を示している。しかし、大学の数を減らせば問題が解決するというほど、話は単純ではない。

進学率が上がっても、大学進学者は減っていく

日本の18歳人口は、1992年の約205万人をピークに減少し、2025年には約110万人となった。

一方、大学進学率は上昇を続け、2025年には過去最高の58.64%に達している。これまでは18歳人口が減少しても、進学率が上がることで大学進学者数は維持されてきた。

しかし、その段階もいよいよ終わる。

文部科学省は、2026年以降、進学率が上昇しても大学進学者数は減少すると予測している。文部科学省の推計では、2040年の18歳人口は約74万人、大学入学者数は約45万5000人となる。

現在と同程度の入学定員を維持した場合、2040年の定員充足率は約72%まで低下する。外国人留学生が増えたとしても、70%台にとどまる見込みである。

すべての大学が現在の規模のまま存続することは、もはや現実的ではない。

「私立大学4割削減」は決定事項ではない

こうした状況を受け、財務省は2026年4月23日の財政制度等審議会に、私立大学の規模を大幅に縮小する試算を提示した。

報道では、「現在624校ある私立大学を、2040年までに少なくとも約250校減らす」「私立大学の4割削減」と大きく取り上げられた。

ただし、これは政府が正式に決定した計画ではない。財務大臣の諮問機関に財務省が示した試算・提案という段階である。財政制度分科会の配付資料をもとに、今後の大学規模や私学助成の在り方を議論しようというものである。

それでも、「4割削減」という数字が大学関係者に大きな衝撃を与えたのは当然だろう。

大学数と学生定員は比例しない

中丸氏は、この財務省案について「やや乱暴なところがある」と指摘していた。

重要なのは、大学数を4割減らしても、大学全体の学生定員が4割減るとは限らないことである。

2025年度の私立大学のうち、約300校は入学定員400人未満の小規模大学である。小規模大学が多数閉鎖する一方、大都市の大規模大学が定員を増やせば、大学数ほど学生定員は減少しない。

むしろ、地方の小規模大学だけが次々と消え、学生が東京、大阪、名古屋などの大都市圏にさらに集中する可能性もある。

大学数だけを目標にすると、地方創生とは反対の結果を招きかねないのである。

約3000億円の私学助成はどう配分されているのか

国は毎年、私立大学などに約3000億円の経常費補助金を交付している。

私学事業団の資料によると、2025年度の私立大学等経常費補助金は約2979億円である。大学別では、早稲田大学が約90億円で1位、慶應義塾大学が約90億円で2位となっている。また、交付額上位10校のうち7校が医学部を設置する大学である。

もっとも、この順位をそのまま「教育の優れた大学ランキング」と受け取ることはできない。

一般補助は、学生数や教職員数などを基礎として算出される。大規模大学ほど交付額が大きくなりやすく、医学部や理工系など、教育・研究に多額の費用を必要とする分野には手厚く配分される仕組みである。

したがって、補助金の総額だけを見て、大学の教育力を比較することはできない。

一方で、国費が投入されている以上、その大学がどのような教育成果を上げているのかを検証する必要はある。学生数と教員数だけで機械的に配分するのではなく、教育内容や社会的役割も考慮した配分に改めていくべきだろう。

文系76万人余剰、理系124万人不足

産業構造の変化も、大学再編に大きく関係している。

経済産業省の「2040年の就業構造推計」では、大卒・大学院卒の文系人材は約76万人余る一方、理系人材は約124万人不足すると予測されている。

AI、ロボット、半導体、情報通信などの分野が拡大する一方、日本の大学は文系学部の比率が高く、産業界が必要とする人材とのミスマッチが生じるという見通しである。

ただし、これを「文系は不要だから削減し、理系に置き換えればよい」と理解するのも危険である。

AIや生命科学が発展するほど、法律、倫理、心理、経済、教育、社会制度などの知識が必要になる。求められているのは単純な文系削減ではなく、文系学生もデータサイエンスを学び、理系学生も倫理や社会制度を学ぶような、文理横断型の教育への転換である。

看板だけを「データサイエンス学部」や「情報学部」に掛け替えても、十分な教員、設備、カリキュラムがなければ意味はない。

東京23区の定員規制は地方を救っているのか

大学再編をめぐっては、東京23区内の大学定員規制も争点になっている。

東京一極集中を抑えるため、2018年から東京23区内にある大学は、学部・学科の新設などによって定員を増やすことが原則として禁止されている。この規制は2028年3月に期限を迎える。

しかし、東京の大学の定員を抑えたことで、地方大学の衰退に歯止めがかかったのかというと、効果は明確ではない。

東京の大学への進学を制限しても、地方大学の教育内容、研究環境、就職先、生活環境が魅力的にならなければ、若者が地方に残るとは限らない。

大学の経営や学部再編の自由を制限するよりも、地方大学の教育・研究力を高め、地域産業と結びついた雇用をつくる方が本筋である。

地方大学を守るには、東京を縛るという消極策ではなく、地方に行きたいと思わせる積極策が必要なのだ。

経営難の私立大学を公立化すればよいのか

地方では、経営難に陥った私立大学を自治体が引き受け、公立大学へ転換する例も増えている。

公立化すれば授業料が下がり、志願者が増えることがある。しかし、設置者を学校法人から自治体に変えただけでは、教育内容や地域の人口構造まで変わるわけではない。

経営赤字を地方税で穴埋めするだけになれば、問題を私立大学から自治体へ移したにすぎない。

文部科学省の検討会でも、公立化した大学では、地域内からの入学率や地域内就職率がかえって下がる傾向があるとの指摘が出ている。公立化によって全国から学生が集まっても、卒業後に地域へ残らなければ、地方創生という目的は達成できない。

公立化を判断する際には、

  • その地域に本当に必要な人材を育成しているか
  • 卒業生が地域の医療、福祉、教育、産業を支えているか
  • 他大学と重複しない専門分野があるか
  • 自治体が長期的な財政負担に耐えられるか
  • 公立化以外に統合や連携という選択肢はないか

を検討しなければならない。

大学の「教育の実力」を何で測るのか

これから大学を再編するなら、偏差値、知名度、定員充足率だけで存続大学を決めてはならない。

偏差値は入学者の学力を示す指標であり、その大学が学生をどれだけ成長させたかを示すものではない。定員が埋まっていることも、教育内容が優れている証明にはならない。

大学の教育力を評価するには、少なくとも次のような観点が必要である。

  1. 入学時から卒業時までに学生の知識・技能がどれだけ伸びたか
  2. 退学率、留年率、卒業率と、その背景にある学生支援
  3. 資格試験合格率、就職後の定着率、専門分野との関連
  4. 教員数、少人数教育、実験・実習設備などの教育条件
  5. 研究成果や地域社会・産業への貢献
  6. 財務の健全性と学校法人のガバナンス
  7. 教育成果や財務情報を社会に分かりやすく公開しているか

入学者の学力が高い大学が、優れた教育をしているとは限らない。反対に、入学時の学力が高くない学生を丁寧に教育し、専門職として社会へ送り出している大学には、大きな教育的価値がある。

本来評価すべきなのは、「どのような学生を集めたか」だけではなく、「入学した学生をどこまで成長させたか」である。

守るべきなのは大学ではなく、学生の学びである

18歳人口が急減する以上、大学の統合、学部再編、定員縮小、撤退は避けられない。すべての大学を現在の形のまま残すことはできないだろう。

しかし、「定員割れだから不要」「小規模だから閉鎖」「東京だから定員を増やさせない」という機械的な判断では、日本の高等教育全体を弱体化させる。

教育力のある小規模大学や、地域に不可欠な医療・福祉・教育人材を育てる大学まで消えてしまえば、一度失われた教育・研究基盤を取り戻すことは難しい。

大学を存続させること自体が目的なのではない。

守るべきなのは、現在学んでいる学生の教育、これから進学する若者の選択肢、そして地域や社会に必要な知識と人材を育てる機能である。

私立大学の再編は避けられない。しかし、必要なのは大学数を先に決めて切ることではない。

教育の実力と社会的役割を透明な基準で評価し、残すべき大学には重点的に支援し、役割を終えた大学には学生を保護しながら統合・撤退を促す――。

その丁寧な仕組みをつくれるかどうかが、これからの日本の高等教育を左右するのである。

浜岡原発、廃炉費用の資料を書き換え

826日に報道された「浜岡原発の廃炉費用請求で不適切な手続きがあったのではないか」という問題について、翌27日、中部電力が事実関係を公表した。

中部電力の公式発表によると、浜岡原発12号機の2024年度の解体撤去工事について、使用済燃料再処理・廃炉推進機構に実績を報告し、費用を請求する際、協力会社が作成した作業報告書の写しが書き換えられていた。

解体した設備や数量など、実際とは異なる内容が記載された資料が、少なくとも14件、費用請求の根拠資料として提出されていたという。

現段階では、

  • なぜ書き換えたのか
  • 誰が指示したのか
  • 請求額にどれだけ影響したのか
  • 上司や経営陣はどこまで知っていたのか
  • 同じようなことが過去にも行われていなかったのか

という肝心な点は、まだ明らかになっていない。

中部電力は「発電所の安全に直接影響するものではない」と説明している。確かに、12号機は運転を終了しており、使用済み燃料も保管されていないため、今回の書類問題が直ちに原子力事故につながるものではないだろう。

しかし、問題はそこだけではない。

原発を運営する会社が提出する資料について、「書かれている数字は本当に正しいのか」「都合よく変えられていないか」と毎回疑わなければならないとすれば、原子力規制そのものが成立しなくなる。

「間違い」ではなく、都合のよい数字を選んでいた

浜岡原発では、すでに安全審査に使われた地震動データの不正が発覚している。

中部電力の20263月の調査報告によれば、地震データ225ケースのうち、少なくとも108ケースで不適切な選定方法が確認された。

本来は、作成した20の地震波から平均的なものを選ばなければならないところ、数千の地震波の中から揺れの小さい都合のよいものを選び、残りの地震波を後から組み合わせて、あたかも平均的な地震波であるかのように見せていた。

これは単純な計算ミスではない。結論が小さくなるようにデータの選び方を変え、その過程が分からない形で規制委員会に提出していたのである。

しかも、この手法は遅くとも2012年ごろから行われていた。2018年以降、社内から「この選び方には問題がある」「審査資料に方法が記載されていない」と繰り返し懸念が示されていたにもかかわらず、資料は訂正されなかった。

さらに重大なのは、原子力規制庁が外部からの情報提供を受け、20255月に調査を始めた後も、69ケースでデータの並べ替えなどが続けられていたことである。

原子力規制委員会は、この行為を明確に「不正行為」と認定している。規制委員からは、上層部の関与の可能性についても厳しい指摘が出ているが、具体的な指示系統はいまだ調査中である。

ここまで長期間にわたり、複数の担当者や部署をまたいで続いていた以上、「一部の担当者が勝手にやった」で終わらせることはできない。

規制委員会に「取り調べ」までさせるのか

原子力規制委員会の安全審査は、事業者から提出されたデータや計算結果が真正なものであることを前提としている。

もちろん、計算方法や評価の妥当性は厳しく審査される。しかし、元データを意図的に選び替えたり、提出資料の作成過程を隠したりされた場合、科学的な審査だけで不正を見抜くのは困難である。

誰が、いつ、何のために数字を変えたのか。誰がそれを知り、誰が黙認したのか――

本来は地震や原子炉の安全性を審査する機関が、社内メールや指示系統を調べ、関係者の供述を突き合わせるような作業まで求められている。これでは安全審査というより、企業不正の取り調べである。

必要なのは、規制委員会を単純に「警察化」することではない。科学技術の専門家に加え、データ・フォレンジック、会計監査、企業不正調査、法務などの専門家が常設で関与できる仕組みである。

提出された完成資料だけを見るのではなく、元データ、計算プログラム、更新履歴、作業記録まで追跡できなければならない。

電力業界で繰り返されてきた不祥事

これが一社だけの特殊な問題とも思えない。

2019年に発覚した関西電力の金品受領問題では、高浜町の元助役らから、関電グループの役員・社員75人に対し、総額約36000万円相当の金品が渡されていたことが、第3社委員会の調査で明らかになった。

関西電力、中国電力、中部電力ミライズ、九州電力などによる顧客獲得制限、いわゆる電力カルテルでは、公正取引委員会が総額1010億園の課徴金納付を命令した。

2026年には、原発訴訟などの法廷内で、裁判所の許可を得ずにやり取りを録音していた問題が、大手電力8社にまで広がった。中部電力も、少なくとも2004年以降、無断録音が行われていたと公表している。

歴史をさかのぼれば、関西電力による、共産党員またはその同調者とみなした従業員への監視、尾行、ロッカー内の私物撮影などが違法とされた最高裁判決もある。

もちろん、電力会社で働くすべての人が不正に関わっているわけではない。安全確保や電力供給に真面目に取り組んでいる人も大勢いるはずだ。

だからこそ、不正を知りながら止められない組織、不正を指摘した人よりも組織の都合を優先する体質を、そのままにしてはならないのである。

再稼働以前に明らかにすべきこと

浜岡原発については、少なくとも次の事項が明らかになるまで、再稼働に向けた安全審査を安易に再開すべきではない。

  1. 地震データを操作した全関係者と指示系統
  2. 管理職、経営陣が知った時期と、その後の対応
  3. 不正なデータが安全評価全体に与えた影響
  4. 独立した第三者による元データからの再計算
  5. 廃炉費用請求を含む原子力部門全体の文書監査
  6. 内部通報者を保護し、不利益を与えない制度
  7. 元データと変更履歴を消去・改変できない仕組み

経済産業省も今回の廃炉費用問題について、中部電力に対し、事実関係、原因、再発防止策、類似事案の有無を925日までに報告するよう、法令に基づく報告徴収を行った。

「安全には影響しない」「担当者の認識が不足していた」「再発防止を徹底する」。

もはや、そのような言葉だけで信用を取り戻せる段階ではない。

原発を運転する資格は、技術力だけで決まるものではない。都合の悪い数字も正直に出すこと、不正を指摘されたら直ちに止めること、誰が責任を負うのかを明らかにすること――。その最低限の誠実さが必要である。

信頼とは、会社が「信頼してください」と求めれば得られるものではない。

検証可能な事実と責任ある行動によって、会社側が一から積み上げ直すものである。

 

大学推薦入試の拡大は、大学教育のためになっているのか

近年、大学入試は大きく変化している。

総合型選抜や学校推薦型選抜が急速に拡大し、多くの大学では入学者の半数以上が推薦入試を経て入学する時代となった。その背景には少子化への対応や、多様な能力を評価しようという考え方がある。

理念としては理解できる。

学力試験だけでは測れない主体性や探究心、リーダーシップを評価することには意味があるだろう。

しかし、大学で教育に携わる立場として、私はこの流れに強い危機感を抱いている。

推薦入試で入学してきた学生を数多く指導してきた経験から率直に感じるのは、基礎学力に大きなばらつきがあるということである。

もちろん、推薦入試にも非常に優秀な学生はいる。

意欲が高く、研究にも積極的で、大きく成長する学生も少なくない。

しかし、制度全体として見ると、一般選抜で入学した学生と比較した場合、大学教育の土台となる基礎学力が十分に備わっていない学生の割合は、決して低くないというのが現場での実感である。

大学は、高校の延長ではない。

教員が一から教え込む場所ではなく、自ら文献を読み、論理的に考え、新しい知識を積み重ねていく場所である。

そのためには、高校までに培われた確かな学力が欠かせない。

特に理系学部や専門職を養成する学部では、知識を暗記するだけでは通用しない。

文章を正確に読み取り、数式やデータを理解し、複数の知識を統合して考える力が求められる。

基礎学力が不足している学生は、一度つまずくと、その後の専門教育についていくことが難しくなる。

その結果、大学教員は、本来なら高度な内容を教えるべき時間を、基礎学力を補う教育に充てざるを得なくなる。

これは学生本人にとっても、大学にとっても、そして日本の高等教育全体にとっても大きな損失である。

最近では、神戸大学が大学共通の「志」特別選抜を終了し、各学部独自の選抜制度へ移行することを発表した。大学は公式には「各学部のアドミッション・ポリシーに応じた選抜へ移行するため」と説明している。

その説明はもちろん尊重すべきである。

しかし、教育現場にいる一教員としては、その背景には、「大学で学び抜くための学力を、より適切に評価したい」という問題意識もあるのではないかと感じている。

実際、大学教育の現場では、「主体性」や「探究活動」の評価だけでは、大学教育に必要な基礎学力まで保証することは難しいという現実に、日々直面しているからである。

推薦入試を全面的に否定するつもりはない。

大学には多様な学生が必要であり、人物評価を重視する選抜にも意義はある。

しかし、その一方で、大学は研究機関であり教育機関でもある。

そこで学ぶための最低限の学力は、どのような選抜方法であっても客観的に確認されるべきではないだろうか。

大学の使命は、「入学者数を確保すること」ではない。

社会で活躍できる人材を育てることである。

推薦入試の拡大が、その理念を損なう方向へ進んでしまえば、本末転倒である。

私は、推薦入試そのものを否定しているのではない。

問いたいのは、「大学で学び抜くだけの学力を、本当に評価できているのか」という一点である。

大学教育の質は、一度失われれば簡単には取り戻せない。

だからこそ今、推薦入試の割合を増やすことだけを議論するのではなく、「学力」と「人物評価」をどう両立させるかという、本質的な議論が必要なのではないだろうか。

スマホは子どもの脳を壊すのか

スマートフォンは、今や子どもたちにとって最も身近な情報機器となった。小学校高学年では約7割がスマートフォンを所有しているという調査結果も報告されており、中学生ではさらに高い割合になると考えられる。

確かに、スマホは便利である。家族や友人との連絡、調べ学習、動画視聴、地図、決済など、日常生活に欠かせない機能を数多く備えている。今後の社会を考えれば、子どもたちがスマホを使いこなす能力も必要になるだろう。

しかし、その一方で気になる研究結果も数多く報告されるようになってきた。

それは、「スマホを長時間利用する子どもほど、脳の発達や学力に悪影響が認められる」という報告である。

もちろん、「スマホは悪い」と単純に結論づけることはできない。しかし、神経科学の立場から考えると、発達期の子どもにとって注意すべき点がいくつか存在することも事実である。

発達する脳は「使われた回路」が育てられる

子どもの脳は大人とは異なる。

特に前頭前野は20歳前後まで成熟が続くことが知られている。この領域は、思考力、計画性、注意力、判断力、感情のコントロール、我慢する力、さらには他者の気持ちを理解する能力など、人間らしい高次認知機能を担っている。

脳には、「よく使われた神経回路ほど強化される」という基本的な性質がある。

反対に、十分に使われなかった回路は発達が遅れ、不要と判断されたシナプスは刈り込まれていく。このシナプス刈り込みは、発達期の脳ではごく自然な現象であり、効率的な神経回路を作るために欠かせない過程でもある。

つまり、子どもの脳は「何に時間を使ったか」によって少しずつ形づくられていくのである。

問題はスマホではなく「受動的な時間」

スマホそのものが脳に悪いわけではない。

プログラミングをしたり、動画を編集したり、文章を書いたり、調べ学習を行ったりする場面では、前頭前野は活発に働いている。

一方で、

ショート動画を次々と眺める。

SNSを目的なくスクロールし続ける。

おすすめ動画を延々と見続ける。

このような使い方では、自ら考える時間が極端に少なくなる。

脳は筋肉によく例えられる。

筋肉は使わなければ衰える。同じように、思考する機会が減れば、思考を担う神経回路も十分には鍛えられない可能性が考えられる。

東北大学加齢医学研究所の研究では、長期間にわたってインターネット機器を長時間利用している子どもでは、MRIで評価した脳構造の発達が小さい領域が広く認められたことが報告されている。

テレビなどでは「脳の3分の1が発達しなかった」と紹介されることもあるが、これは脳そのものが失われたという意味ではない。MRIで観察される発達指標の変化を一般向けに分かりやすく表現したものであり、そのように理解する方が正確である。

学力との関係も無視できない

仙台市の児童・生徒を対象とした研究では、スマホの利用時間が長くなるほど、学力が低下する傾向が認められている。

興味深いことに、まったく利用しない子どもよりも、1時間未満だけ利用している子どもの方が成績は高かった。

この結果は、「スマホが勉強に役立つ」という意味ではないだろう。

むしろ、自分自身で利用時間をコントロールできる自己制御能力を持った子どもが多く含まれていた可能性が考えられる。

重要なのは、スマホを持つことではなく、スマホを管理できることである。

「ながら勉強」は脳に最も負担をかける

近年、多くの子どもが勉強中にもスマホを手放さない。

通知が来れば画面を見る。

少し疲れればSNSを見る。

また勉強に戻る。

脳は一度に複数の認知課題へ集中できるわけではない。

実際には、

勉強 → スマホ → 勉強 → SNS

というように注意が何度も切り替えられているだけである。

この切り替えには大きな認知コストが伴う。

研究では、スマホを操作しながら3時間勉強した子どもの成績が、スマホを触らず30分集中して勉強した子どもとほぼ同程度であったという結果も報告されている。

学習時間ではなく、どれだけ集中できたかが学力を左右すると考えられる。

子どもは親の背中を見て育つ

もう一つ興味深い研究がある。

親のスマホ利用時間が長い家庭ほど、子どもの利用時間も長くなるのである。

子どもは親の言葉よりも行動を見ている。

「スマホばかり見てはいけない」と言われても、食事中も会話中も親がスマホを見ていれば、それが家庭の標準になる。

子どもだけにルールを課しても、長続きしない理由はここにある。

家庭全体でスマホとの付き合い方を考えることが重要なのである。

大切なのは「禁止」ではなく「時間を取り戻すこと」

私は神経科学を研究しているが、スマホを禁止すべきだとは考えていない。

スマホは今後ますます必要な道具になる。

だからこそ必要なのは、「使わない」ことではなく、「使われない」ことである。

子どもの脳が最も大きく成長する時期は、一生のうち一度しかない。

本を読む。

友達と遊ぶ。

外で体を動かす。

家族と会話する。

何かについてじっくり考える。

失敗しながら工夫する。

こうした経験によって神経回路は少しずつ作り替えられ、思考力や創造性、社会性が育まれていく。

スマホが問題なのではない。

スマホによって、こうした貴重な経験の時間が奪われてしまうことこそが問題なのである。

子どもの脳を育てるために必要なのは、最新の教育法でも、高価な教材でもない。

家庭の中でスマホとの距離を少し見直し、「考える時間」「遊ぶ時間」「会話する時間」を取り戻すこと。その積み重ねが、子どもの未来の脳を育てる最も確実な方法なのではないだろうか。