colnyago’s diary

勝手気ままに書き散らかしたものです

大学推薦入試の拡大は、大学教育のためになっているのか

近年、大学入試は大きく変化している。

総合型選抜や学校推薦型選抜が急速に拡大し、多くの大学では入学者の半数以上が推薦入試を経て入学する時代となった。その背景には少子化への対応や、多様な能力を評価しようという考え方がある。

理念としては理解できる。

学力試験だけでは測れない主体性や探究心、リーダーシップを評価することには意味があるだろう。

しかし、大学で教育に携わる立場として、私はこの流れに強い危機感を抱いている。

推薦入試で入学してきた学生を数多く指導してきた経験から率直に感じるのは、基礎学力に大きなばらつきがあるということである。

もちろん、推薦入試にも非常に優秀な学生はいる。

意欲が高く、研究にも積極的で、大きく成長する学生も少なくない。

しかし、制度全体として見ると、一般選抜で入学した学生と比較した場合、大学教育の土台となる基礎学力が十分に備わっていない学生の割合は、決して低くないというのが現場での実感である。

大学は、高校の延長ではない。

教員が一から教え込む場所ではなく、自ら文献を読み、論理的に考え、新しい知識を積み重ねていく場所である。

そのためには、高校までに培われた確かな学力が欠かせない。

特に理系学部や専門職を養成する学部では、知識を暗記するだけでは通用しない。

文章を正確に読み取り、数式やデータを理解し、複数の知識を統合して考える力が求められる。

基礎学力が不足している学生は、一度つまずくと、その後の専門教育についていくことが難しくなる。

その結果、大学教員は、本来なら高度な内容を教えるべき時間を、基礎学力を補う教育に充てざるを得なくなる。

これは学生本人にとっても、大学にとっても、そして日本の高等教育全体にとっても大きな損失である。

最近では、神戸大学が大学共通の「志」特別選抜を終了し、各学部独自の選抜制度へ移行することを発表した。大学は公式には「各学部のアドミッション・ポリシーに応じた選抜へ移行するため」と説明している。

その説明はもちろん尊重すべきである。

しかし、教育現場にいる一教員としては、その背景には、「大学で学び抜くための学力を、より適切に評価したい」という問題意識もあるのではないかと感じている。

実際、大学教育の現場では、「主体性」や「探究活動」の評価だけでは、大学教育に必要な基礎学力まで保証することは難しいという現実に、日々直面しているからである。

推薦入試を全面的に否定するつもりはない。

大学には多様な学生が必要であり、人物評価を重視する選抜にも意義はある。

しかし、その一方で、大学は研究機関であり教育機関でもある。

そこで学ぶための最低限の学力は、どのような選抜方法であっても客観的に確認されるべきではないだろうか。

大学の使命は、「入学者数を確保すること」ではない。

社会で活躍できる人材を育てることである。

推薦入試の拡大が、その理念を損なう方向へ進んでしまえば、本末転倒である。

私は、推薦入試そのものを否定しているのではない。

問いたいのは、「大学で学び抜くだけの学力を、本当に評価できているのか」という一点である。

大学教育の質は、一度失われれば簡単には取り戻せない。

だからこそ今、推薦入試の割合を増やすことだけを議論するのではなく、「学力」と「人物評価」をどう両立させるかという、本質的な議論が必要なのではないだろうか。

スマホは子どもの脳を壊すのか

スマートフォンは、今や子どもたちにとって最も身近な情報機器となった。小学校高学年では約7割がスマートフォンを所有しているという調査結果も報告されており、中学生ではさらに高い割合になると考えられる。

確かに、スマホは便利である。家族や友人との連絡、調べ学習、動画視聴、地図、決済など、日常生活に欠かせない機能を数多く備えている。今後の社会を考えれば、子どもたちがスマホを使いこなす能力も必要になるだろう。

しかし、その一方で気になる研究結果も数多く報告されるようになってきた。

それは、「スマホを長時間利用する子どもほど、脳の発達や学力に悪影響が認められる」という報告である。

もちろん、「スマホは悪い」と単純に結論づけることはできない。しかし、神経科学の立場から考えると、発達期の子どもにとって注意すべき点がいくつか存在することも事実である。

発達する脳は「使われた回路」が育てられる

子どもの脳は大人とは異なる。

特に前頭前野は20歳前後まで成熟が続くことが知られている。この領域は、思考力、計画性、注意力、判断力、感情のコントロール、我慢する力、さらには他者の気持ちを理解する能力など、人間らしい高次認知機能を担っている。

脳には、「よく使われた神経回路ほど強化される」という基本的な性質がある。

反対に、十分に使われなかった回路は発達が遅れ、不要と判断されたシナプスは刈り込まれていく。このシナプス刈り込みは、発達期の脳ではごく自然な現象であり、効率的な神経回路を作るために欠かせない過程でもある。

つまり、子どもの脳は「何に時間を使ったか」によって少しずつ形づくられていくのである。

問題はスマホではなく「受動的な時間」

スマホそのものが脳に悪いわけではない。

プログラミングをしたり、動画を編集したり、文章を書いたり、調べ学習を行ったりする場面では、前頭前野は活発に働いている。

一方で、

ショート動画を次々と眺める。

SNSを目的なくスクロールし続ける。

おすすめ動画を延々と見続ける。

このような使い方では、自ら考える時間が極端に少なくなる。

脳は筋肉によく例えられる。

筋肉は使わなければ衰える。同じように、思考する機会が減れば、思考を担う神経回路も十分には鍛えられない可能性が考えられる。

東北大学加齢医学研究所の研究では、長期間にわたってインターネット機器を長時間利用している子どもでは、MRIで評価した脳構造の発達が小さい領域が広く認められたことが報告されている。

テレビなどでは「脳の3分の1が発達しなかった」と紹介されることもあるが、これは脳そのものが失われたという意味ではない。MRIで観察される発達指標の変化を一般向けに分かりやすく表現したものであり、そのように理解する方が正確である。

学力との関係も無視できない

仙台市の児童・生徒を対象とした研究では、スマホの利用時間が長くなるほど、学力が低下する傾向が認められている。

興味深いことに、まったく利用しない子どもよりも、1時間未満だけ利用している子どもの方が成績は高かった。

この結果は、「スマホが勉強に役立つ」という意味ではないだろう。

むしろ、自分自身で利用時間をコントロールできる自己制御能力を持った子どもが多く含まれていた可能性が考えられる。

重要なのは、スマホを持つことではなく、スマホを管理できることである。

「ながら勉強」は脳に最も負担をかける

近年、多くの子どもが勉強中にもスマホを手放さない。

通知が来れば画面を見る。

少し疲れればSNSを見る。

また勉強に戻る。

脳は一度に複数の認知課題へ集中できるわけではない。

実際には、

勉強 → スマホ → 勉強 → SNS

というように注意が何度も切り替えられているだけである。

この切り替えには大きな認知コストが伴う。

研究では、スマホを操作しながら3時間勉強した子どもの成績が、スマホを触らず30分集中して勉強した子どもとほぼ同程度であったという結果も報告されている。

学習時間ではなく、どれだけ集中できたかが学力を左右すると考えられる。

子どもは親の背中を見て育つ

もう一つ興味深い研究がある。

親のスマホ利用時間が長い家庭ほど、子どもの利用時間も長くなるのである。

子どもは親の言葉よりも行動を見ている。

「スマホばかり見てはいけない」と言われても、食事中も会話中も親がスマホを見ていれば、それが家庭の標準になる。

子どもだけにルールを課しても、長続きしない理由はここにある。

家庭全体でスマホとの付き合い方を考えることが重要なのである。

大切なのは「禁止」ではなく「時間を取り戻すこと」

私は神経科学を研究しているが、スマホを禁止すべきだとは考えていない。

スマホは今後ますます必要な道具になる。

だからこそ必要なのは、「使わない」ことではなく、「使われない」ことである。

子どもの脳が最も大きく成長する時期は、一生のうち一度しかない。

本を読む。

友達と遊ぶ。

外で体を動かす。

家族と会話する。

何かについてじっくり考える。

失敗しながら工夫する。

こうした経験によって神経回路は少しずつ作り替えられ、思考力や創造性、社会性が育まれていく。

スマホが問題なのではない。

スマホによって、こうした貴重な経験の時間が奪われてしまうことこそが問題なのである。

子どもの脳を育てるために必要なのは、最新の教育法でも、高価な教材でもない。

家庭の中でスマホとの距離を少し見直し、「考える時間」「遊ぶ時間」「会話する時間」を取り戻すこと。その積み重ねが、子どもの未来の脳を育てる最も確実な方法なのではないだろうか。

「The Japan Way」を完成させることこそ、日本サッカーの未来

森保一監督が将来の日本代表について、「最終的にはスペインのように、ボールを握りながら局面でも勝っていくチームを目指すべき」と語ったことが話題になった。

もちろん、その言葉の真意は「今すぐスペインのサッカーを真似しよう」ということではないだろう。スペインが世界最高峰の完成度を示している以上、一つの理想像として挙げることに何ら問題はない。

しかし、西部謙司氏が指摘するように、現在のスペインサッカーは、一朝一夕に出来上がったものではない。

西部氏の論説を引用すると、その原点は1988年、ヨハン・クライフがアヤックスで築いた思想をバルセロナへ持ち込んだことに始まる。そして約20年という歳月をかけて、グアルディオラがそれを完成させ、さらにバルセロナの育成システムが代表チームと一体化することで、世界最強のスタイルへと昇華された。

つまり、現在のスペインは「スペインらしいサッカー」を作ったのではない。

オランダから輸入した思想を、自国の育成システムとクラブ文化の中で数十年かけて磨き上げ、「スペインのサッカー」に変えていったのである。

そして興味深いのは、その完成品を真似しようとした国々が、必ずしも成功していないことだ。

ドイツもイタリアも一時的には成果を上げた。しかし、その後は自国らしさとの間で揺れ動き、アイデンティティを模索する時代が続いている。

完成形だけを真似ても、その土台までは輸入できない。

これが世界サッカーの現実なのだろう。

 

日本は何を目指すべきなのか

では、日本はどう進むべきなのだろうか。

私は、今回のワールドカップで日本代表が見せた戦い方こそ、日本サッカーが積み上げてきた大きな財産だと考えている。

日本代表は、世界トップレベルのタレントを数多く揃えているわけではない。

それでも世界の強豪国と互角以上に戦えた理由は明確である。

攻守において組織が崩れない。

全員が同じ絵を共有し、全員が同じタイミングで動き、誰が出ても同じ強度でプレーできる。クラブチームのような緻密な組織力を代表チームで実現していた。

これは世界的に見ても決して当たり前のことではない。代表チームは活動期間が短く、多くの場合、個の能力に依存しやすい。その中で日本は、組織力という武器を極限まで高めてきた。これは日本サッカーが長年積み重ねてきた一つの文化であり、簡単に手に入るものではない。

というか、逆かもしれない。

日本文化の土台のうえにあるようなサッカーを見せてもらった気がしている。だからこそ、この強みを捨てる理由はまったくない。

 

ここから必要なのは「個」のレベルアップ

ただ一方で、今回のワールドカップを見て改めて感じたこともある。

スペインやアルゼンチンの選手たちは、組織だけではなく、一人ひとりの技術や判断速度、ボール保持能力がさらに一段高い。

ブラジル戦を見ても、個々のレベルが日本の選手よりもかなり違った。局面を一人で変えられる選手が何人も存在する。

だからといって、日本もスペインやアルゼンチン、ブラジルのようなサッカーへ舵を切ればよい、という話ではない。

日本にはすでに世界でも十分通用する組織力がある。だから今後は、その組織力を維持したまま、育成年代から「個」をさらに高めていくことが重要になる。

止める、蹴る、運ぶ。

狭い局面で失わない。

相手を一人ではがせる。

判断の速さ。

認知能力。

球際の強さ。

こうした個の能力が一段階、二段階と向上すれば、日本の組織力はさらに威力を増す。

組織か個か。

その二者択一ではない。

組織という土台の上に、より高い個を積み上げるのである。これは20年くらい前から言われ続けていることである。ということは、以前と同じか。

 

「The Japan Way」は、これから完成していく

スペインは40年以上かけて自国のスタイルを完成させた。

日本もまた、同じように自分たちだけのサッカーを育てる時期に来ているのではないか。

スペインを目標にすることは悪くない。

しかし、スペインになる必要はない。

世界には、それぞれの国にしか生み出せないサッカーがある。

日本には、日本にしか作れないサッカーがあるはずだし、これまでの歴史がある。

1)1990年代初頭のオフトさんによる全員が同じ絵を見るサッカー

・ラインコントロール
・ゾーンディフェンス
・コンパクトな陣形
・攻守の切り替え

 

2)1990年代中盤 加茂さん・岡田さんによる日本化したゾーンプレスとマンマークの融合化

・献身性
・規律
・守備組織

 

3)トルシエさん時代(1998~2002)

「全員で守り、全員で攻める」を極限まで高めた。最後は選手による微調整。

・プレス
・カバー
・連動

 

4)ジーコさん時代(2002~2006)

「個の育成」ジーコによる逆方向への反発

・もっと自由に。

・もっと個性を。

・もっと判断を。

このころから海外組が増え始める

 

5)オシムさん時代(2006~2007)

「考えて走る」

オシムは日本サッカーに"Think"を持ち込んだ。

・止まって受けるな。

・空いたスペースへ動け。

・判断。

彼の哲学は現在まで色濃く残っている。

 

6)第2期 岡田さん時代(2007~2010)

「リアリズム」

日本らしい組織を残しながら、現実的な守備。

そこからの速攻。

 

7)ザッケローニさん時代(2010~2014)

「保持への挑戦」

初めて「自分たちでボールを持つ」ことへ挑戦。

香川、本田、長友、内田らの世代だった。

しかし保持はできても、世界のプレッシャーには苦しんだ。プレッシャーのある中で技術を出せないかった。ここで「ボールを持つだけでは勝てない」ことを学ぶ。

 

8)ハリルホジッチさん時代(2015~2018)

「デュエル」

ハリルさんは世界との差は1対1だと考えた。

縦へ。

速く。

球際。

デュエル。

ただ、日本の文化との融合は十分ではなかった。

しかし、このデュエルを意識することで、プレッシャーのある中で技術を出せるようになってきた。とても大事なことだと今になって思う。

 

9)森保さん時代(2018~)

「融合」

森保ジャパンが面白いのは、これまで30年間を否定していないこと。考えてみれば、森保さんはオフトの薫陶を受けている。

オフトの組織。

トルシエの連動。

オシムの判断。

ザックの保持。

ハリルの強度。

これら全部を取り入れようとしている。

だから今回のワールドカップでは、

世界でも珍しい「クラブチームのような代表」になっていた。

誰が出ても同じ強度。

同じ距離感。

同じプレス。

同じ攻守。

代表チームとは思えない完成度だった。

 

こうやって、この40年弱をみると、多少の浮き沈みは見られるが、日本人・日本文化の強みを考えた上で、きちんと弱点をなくそうとし、強化しているのではないかと思える。

Jリーグができてから、これまでの40年間で、土台はできたのではないかと思う。

クラブレベルの組織力に、世界基準の個の能力を育成年代から積み上げていく。

それは遠回りに見えるかもしれない。

しかし振り返れば、スペインもまた40年以上かけて現在の姿にたどり着いた。

そう考えると、日本が自分たちの強みを磨き続けながら、その上に世界最高水準の個を育てていくことこそが、結果的には世界一へ近づく最も確実な道なのではないだろうか。

目指すべきは「第二のスペイン」ではない。

世界が「あれが日本のサッカーだ」と認める、The Japan Way の完成である。

中学受験のメリット・デメリット

小学生の進路において、今や珍しくない選択肢となった「中学受験」。家族一丸となって挑む一大イベントであり、子どもの将来の選択肢を広げる魅力がある一方で、多感な時期に挑戦するからこそ家庭にかかる負担も決して小さくないだろう。

うちも、実は子供が中学受験をしたので、本記事では、中学受験のメリット・デメリットを整理し、進路選びのヒントを解説する。

 

中学受験の主なメリット

1. 中高一貫の「6年間」で伸び伸び過ごせる

最大の魅力は、高校受験がない点だ。中学3年〜高校1年の時期に受験勉強で分断されることなく、シームレスに部活動や趣味、探究学習などにじっくり打ち込める。また、多くの私立・中高一貫校ではカリキュラムを前倒しで進めるため、大学受験に向けた準備を有利に進められる。

2. 環境や学習レベルの高さ

似たような学力や価値観、目標を持った仲間が集まるため、お互いに切磋琢磨できる環境が整う。また、私立校ならではの手厚い教育設備や独自の国際教育、ICT教育など、質の高い教育環境を享受できるのも特徴である。子供の学校を見ていると、上の子が公立だったが、むしろ私立のほうが子供の多様性は豊かではないかと感じる。

3. 早いうちに「思考力・学習習慣」が身につく

中学受験で出題される問題は、小学校の教科書レベルを超えた応用問題(論理的思考力や記述力)が多い。これらに挑む過程で、若いうちに高度な学習習慣や問題解決能力の土台が形成される。

 

中学受験の主なデメリット

1. 経済的・心理的な負担が大きい

通塾代や教材費など、小学4〜6年の3年間で200万〜300万円以上かかるケースが一般的だ。さらに、合格・不合格という明確な結果が出るため、親子ともに精神的なストレス管理が欠かせない。下手をすると、一生心の傷が残ることもある。

2. 小学生らしい体験とのトレードオフ

放課後に友達と遊ぶ時間や習い事、家族での外出などを削減し、勉強に充てる必要が出てくる。睡眠時間の確保や体力面でのサポートなど、生活リズムの維持が課題となる。うちの子は、塾にいっていたが、友達との遊びもやりながら過ごせていたのは大きい。

3. 親子のコミュニケーションがギクシャクしやすい

10〜12歳の子どもが自己管理だけで受験を乗り切るのは困難である。親のサポートが不可欠な反面、勉強の進捗や成績を巡って過度な叱責が増え、親子関係が悪化するリスクをはらんでいる。

メリット・デメリットの比較

項目

メリット

デメリット

学習・進路

中高6年間の一貫教育、大学受験へのアドバンテージ

受験対策の負担が大きい、地元の中学へ進む友人とは別々に

環境

充実した設備、独自の教育方針、意識の高い仲間

通学時間が長くなる可能性がある

家庭・コスト

子どもの成長や努力する姿を間近でサポートできる

塾代・学費などの経済的負担、スケジュール管理の負担

中学受験は「合格すること」だけがゴールではない。途中のプロセスで身につく学習習慣や「やりきった経験」もまた、子どもの生涯にわたる財産となる。プロセス重視だと、親子で納得いくのではないかと思う。

周りの流行や焦りに流されることなく、家庭の教育方針や本人の性格・体力を総合的に見極めた上で、納得のいく選択をしてほしい。

デジタル時代:「アナログ」と「紙の本」がもたらす価値

mainichi.jp

 

世の中のデジタル化やペーパーレス化、電子書籍の普及が加速している。業務の効率化や持ち運びの利便性といった面で、デジタルの恩恵が大きいことは言うまでもない。

しかし、個人的には「やはりアナログの方が優れており、得られるものが多い」と強く感じている。

特に、仕事や勉強でのリサーチ、あるいは日々の読書において「印刷された紙の本」を開くとき、アナログならではの圧倒的な強みを実感する。

なぜアナログが良いのか。その理由を3つの視点から整理する。

1. ページを繰ることで広がる「周辺知識」と偶発的な学び

紙の本で調べものをしたり読書をしたりする際、最大の強みとなるのが「前後のページへのアクセスのしやすさ」だ。目的の記述を探してページをパラパラと前後させていると、意図していなかった情報や関連知識が自然と視界に入ってくる。

「目的の情報の手前に、非常に興味深い解説があった」 「前後の文脈を行き来しているうちに、周辺の知識まで体系的に身についた」

こうした経験は誰にでもあるはずだ。ピンポイントで目的のデータだけにアクセスするデジタル検索と異なり、紙の本は「目的以外の周辺知識」にも触れられる構造になっている。この偶発的な出会い(セレンディピティ)こそが思考の幅を広げ、より深い理解と豊かな知性をもたらす。

2. 直感的な操作性と「全体像」の把握しやすさ

デジタル機器での閲覧は、画面の切り替えやスクロール、複雑な操作など、思考を中断させるストレスが少なくない。

一方、紙の本や書類といったアナログ媒体は、「開けば即座に見られる」「手触りで位置関係を把握できる」という直感性に優れている。本全体のどのあたりを読んでいるのか、前後の文脈がどうつながっているのかを空間的に把握できるため、頭の中を整理しやすい。

3. トラブルに対する強さと記憶への定着

デジタルへの過度な依存は、システム障害や停電、通信トラブルが発生した際にすべての機能を失うリスクを孕んでいる。その点、アナログな媒体は電力やネットワークに頼らず単体で機能するため、非常時における信頼性が極めて高い。

さらに、手を使ってページをめくり、紙の質感や厚みを感じながら読む行為は、脳を刺激し記憶の定着を促す。使い込まれた本や手書きのメモには、デジタルデータには決して真似できない「情報の重み」が存在する。

 

効率やスピードを追求するデジタル化の流れをすべて否定するつもりはない。両者の利点を生かしたハイブリッドが理想であることも確かだ。

だが、「便利だから」「時代だから」という理由だけで何でもデジタルに置き換えてしまえば、紙の本を繰ることで得られる「深い学び」や「偶然の発見」まで手放すことになりかねない。

アナログが持つ「確実性」「知識の広がり」「安心感」という価値を、今こそ再評価すべきだ。

日本はなぜワールドカップのトーナメントで勝てないのか

サッカー日本代表、負けてしまった。

しかし、確実に強くなっていることはわかった。

かつては本大会に出場すること自体が大きな目標だったが、今ではグループリーグを突破し、強豪国に勝つことも珍しくなくなってきている。実際、2022年のカタール大会では、ドイツとスペインを破っている。また、練習試合とはいえ、ブラジルやイングランドにも勝った。

ワールドカップ本体会において、トーナメントで日本はまだ勝ったことがない。

なぜ、グループリーグでは強豪国に勝てるのに、決勝トーナメントでは勝ち切れないのだろうか。

一つには、決勝トーナメントがグループリーグとは異なる戦いだからだろう。

グループリーグでは、3試合全体を考えて戦うことができる。1試合に敗れても、次の試合で挽回する余地がある。しかし、決勝トーナメントは一度負ければ終わりである。延長戦やPK戦も含め、より試合の流れを読み、苦しい時間を耐え、最後に結果を残す力が必要になる。

強豪国は、こうした勝ち抜き方をよく知っている。それが経験や歴史といわれるものなのだろう。強国はそれらの世代を超えた積み重ねをもっている。

必ずしも良い内容で勝つわけではない。時には守り切り、時間を使い、相手の勢いを止めながら、わずかな好機を得点につなげる。トーナメントでは、美しく戦うことよりも、最終的に勝つことが優先される。

また、日本は組織力や戦術理解では、すでに世界の上位国と戦えるところまで来ている。一方で、苦しい場面で試合を決める個の力や、勝負どころでのしたたかさについては、まだ差が残っているように思う。

PK戦も、単なる運ではない。技術だけでなく、準備、経験、心理状態まで含めた総合的な勝負である。日本が過去の敗戦から何を学び、どこまで具体的な準備を積み重ねられるかは重要だろう。

強豪国に一度勝つ力から、大会を通して、特にトーナメントで勝てる力へ。

日本代表は、その最後の段階に来ているのではないだろうか。

国際卓越研究大学制度は京都大学をどう変えるのか

「京都大学が国際卓越研究大学に選ばれた。」

このニュースを聞いて、多くの人は「京都大学に巨額の研究費が投入される」という印象を持ったのではないだろうか。もちろん、それは間違いではない。しかし、この制度の本質は単なる「研究費の増額」ではない。

この制度は京都大学という大学そのものの姿を変える可能性を秘めた、大きな転換点だと考えている。これは京都大学にとって飛躍へのチャンスなのか。それとも、これまで大切にしてきたものを手放すことになるのか。その答えは、まだ誰にも分からない。

日本の大学は厳しい現実に直面している

まず理解しなければならないのは、日本の大学を取り巻く現状である。ここ20年、日本の大学は決して順風満帆ではなかった。運営費交付金は減少し、研究設備の更新は遅れ、若手研究者のポストは不足し、博士課程進学者も減少している。その一方で、欧米や中国では研究への投資が急速に拡大し、世界トップ大学との研究費の差は年々広がっている。世界大学ランキングでも、日本の大学の順位は全体として低下傾向にある。こうした状況を見れば、「日本の研究力を回復させるためには、大胆な投資が必要だ」という考えには十分な説得力がある。国際卓越研究大学制度は、まさにそのために創設された制度である。

「10兆円ファンド」が意味するもの

この制度では、10兆円規模の大学ファンドの運用益を活用し、選ばれた大学に長期間にわたる大型支援を行う。京都大学は東北大学、東京科学大学に続く対象大学となり、年間数百億円規模の支援を受けることが見込まれている。これは従来の科研費とは桁が違う。

研究設備の更新。

世界最先端の大型機器。

海外トップ研究者の招聘。

若手研究者の雇用。

研究支援人材の充実。

これまで予算不足で実現できなかったことが、一気に現実味を帯びてくる。さらに支援期間は最長25年。日本の研究制度では例を見ない長期的な視点で研究戦略を描けるようになる。研究者にとって、これほど魅力的な制度はそう多くない。

しかし、本当に「研究費が増える」だけなのか

ここで私は、一つ立ち止まって考えたい。研究費が増えること自体に反対する人は、おそらくほとんどいない。私自身も、日本の研究にはもっと資金が必要だと思っている。しかし、本当に議論すべきなのは、

「その代わりに大学は何を変えることになるのか」

という点ではないだろうか。制度は研究費だけを運んでくるわけではない。大学運営のあり方、意思決定の仕組み、評価の方法まで含めて変えていく可能性がある。

京都大学最大の財産とは何か

京都大学といえば何を思い浮かべるだろう。

ノーベル賞受賞者。

歴史あるキャンパス。

優秀な学生。

もちろん、それらも京大の魅力である。しかし、私が京都大学最大の財産だと思うのは、それとは別のものだ。

自由の学風である。

京都大学は創立以来、「誰もやらない研究」を大切にしてきた。一見すると役に立たない研究。周囲から理解されない研究。すぐに成果が見えない研究。それでも、「面白い」と思えば挑戦できる。そうした空気が、多くの独創的な研究を生み出してきた。京都大学の強さは、「効率」ではなく、「自由」にあったと言っても過言ではない。

評価される研究と、育つ研究

卓越大学制度では、世界トップレベルの研究成果が期待される。

論文数。

被引用数。

国際共同研究。

産学連携。

スタートアップ創出。

これらはいずれも重要な指標である。しかし、ここで一つの疑問が浮かぶ。本当に価値のある研究は、こうした指標だけで測れるのだろうか。ノーベル賞級の研究の多くは、始まった当初から「世界を変える」と評価されていたわけではない。むしろ、「そんな研究に意味があるのか」と言われながら続けられた研究が、十年、二十年を経て大きな成果につながることも少なくない。大学には、「評価される研究」を育てる役割だけでなく、「まだ評価されていない研究」を守る役割もある。この二つのバランスをどう保つかが、今後ますます重要になるだろう。

ガバナンス改革というもう一つのテーマ

国際卓越研究大学制度では、研究力だけでなく、大学経営の改革も求められる。

学長のリーダーシップ。

迅速な意思決定。

戦略的な資源配分。

これらは世界の有力大学でも重視されている。一方で、京都大学は長年、教授会自治や部局自治を大切にしてきた大学でもある。自由な議論には時間がかかる。効率だけを考えれば、もっと速く決められる方法もあるだろう。しかし、その「遠回り」の中から、新しい発想が生まれてきたこともまた事実である。効率と自由。この二つは、ときに緊張関係にある。そのバランスが問われるのである。

「世界一の大学」を目指すことと、「京大らしさ」を守ること

私は、この制度そのものを否定するつもりはない。日本の研究力を高めるために、これほど大規模な投資が行われることには大きな意義がある。しかし、同時に思う。京都大学が目指すべきなのは、「世界ランキングで上位に入る大学」だけなのだろうか。京都大学がこれまで世界から尊敬されてきた理由は、ランキングだけでは説明できない。

自由な発想。

独創性。

型破りな研究。

常識を疑う姿勢。

そうした文化そのものが、京都大学のブランドだったのではないだろうか。国際卓越研究大学制度は、日本の大学改革における大きな挑戦である。成功すれば、日本の研究力は大きく向上するかもしれない。一方で、もし制度の運用が、短期的な成果や数値目標だけを追うものになれば、日本の大学が長年培ってきた自由な研究文化に影響を及ぼす可能性もある。制度そのものが良いか悪いかを、今の時点で断定することはできない。本当に問われるのは、制度が始まってからの運用である。

研究費を増やすことと、自由な学風を守ること。

この二つは、対立するものではなく、両立を目指すべき課題なのではないだろうか。京都大学には、世界トップレベルの研究大学としてさらに発展してほしい。しかし同時に、「自由の学風」という、数字では測れない最大の財産も守り続けてほしい。10年後、20年後に振り返ったとき、「卓越大学になったことで京大はさらに京大らしくなった」と言えるのか。それとも、「効率化の中で失われたものがあった」と振り返ることになるのか。その答えは、制度そのものではなく、それをどう運用し、どのような大学文化を未来へつないでいくかにかかっているのだと思う。